恵みによる選び   ローマの信徒への手紙11.1-10    2020.7.5 

旧約聖書の時代、神の民として歩んだのはイスラエルでした。他方、新約聖書の時代になりますと、それは教会という群れになり、そこに連なるクリスチャンたちということになります。この群れを旧約のイスラエルに対して、新しいイスラエル、神のイスラエル(ガラテヤ6.16)とも言います。それならば旧約時代のイスラエルはもう神の民ではなくなったのでしょうか。確かにそう思われる面はいろいろあります。何よりもイスラエルの人々はイエスを十字架につけてしまいました。イエスだけではありません。イエス・キリストに従うクリスチャンたち、教会をも迫害していきました。たとえば今この手紙を記しているパウロ、彼がまだクリスチャンになる前、すなわちユダヤ人の中でも特に律法を厳格に守るファリサイ派の一人であったときのことをこんなふうに述べています。「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリピ3.6)。このような立場で、キリストの信仰から遠く離れ、また敵対していたのです。

「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか」。これがパウロ自らも含めて、長く旧約時代を契約の民として歩んできたイスラエルに対する問いでした。そこで答えます。「わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です」。「わたしも」と言うように、パウロ自身も教会の人、クリスチャンとなる前に、あるいはそれと共に、旧約の民の流れを受け継いでいるというのです。それだけではありません。他のイスラエルの民以上かもしれないほど、神に反し、神に敵対し、また神の選ばれた教会を人一倍迫害してきました。後にそのような自分のことをこう述べています。「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも(キリストは)現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」(1コリント15.8-9)。さらに「私は、その罪人の頭です」とも言っているのです(1テモテ1.15 協会共同訳)。

「神は御自分の民を退けられたのであろうか」。従って答えは「決してそうではない」ということになります。このような自分(パウロ)、言い換えれば捨てられて当然と思えるような者でも、またそうした神の、そしてクリスチャンの敵であった者でさえキリストの救いにあずかったのですから、その救いから漏れる者はもはや誰もいないということでしょう。それは今日でも同じです。わたしたちは、あの人はまず教会へ来ないだろうと決めつけることがあります。この人は無理だろうとも。自分の夫、妻が信仰者になることはないとのあきらめもそうです。しかしその答えは「決してそうではない」というものなのです。なぜならキリストの信仰は、人間の行い、すなわち善であり悪であれ何をなしたか、何をしなかったか、また何ができるか、あるいは何ができないか等によって得られものではなく、ただわたしたちのためにご自身の命を献げることによって罪と咎を赦し、新しい命に生きるようにしてくださったイエス・キリストの恵みのみによるものだからです。それが6節で語られています。「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります」。

この恵みによる選びは、パウロだけではありません。ここにもう一人の物語をとおしてそれが示されています。旧約の預言者エリヤです。エリヤは炎の戦車と馬に乗って天に上っていきました。旧約の中で死を見ることなく天に上げらえた人が二人います。一人はエノク、もう一人がエリヤです。特にエリヤはそれゆえに、終末の時に再来するという期待が人々の間に生まれるほどの偉大な預言者でした。それでも彼でさえ決して英雄のような強い人ではありませんでした。むしろ人間的な弱さを抱えていたのです。エリヤは時の王アハブとその妻イゼベルとの間で、激しく対立していました。あるときには彼らの迫害によりついに行き詰まり、自ら死を願うまでに追い詰められました。「主を、もう十分です。わたしの命を取ってください」(列王記上19.4)。

そんな中でエリヤが神に討えたのでした。「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています」(3節)。それに対して神はこう答えられました。「わたしは、バアル(異教の神)にひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」(4節)。「わたし一人だけが残りました」。わたしたちは自分の思うようにいかないとき、またそうしたつらいことが続くと、特に周りが見えなくなり自分が一人ぼっちだと思いがちです。誰からも理解してもらえない、自分はどうしようもない者、ダメな人間だ。ここでのエリヤもそうでした。決していつも勇気ある預言者ではなかったのです。絶望して死を願ったほど疲れ果て、追い詰められていたのです。しかしエリヤは一人ぼっちではありませんでした。主はエリヤと同じ信仰の仲間を七千人用意しておられたのです。この七千人、それは数の上で多いとか少ないとかということだけでなく、この数字が完全数字、聖なる数字だということだと思います。まさに「主の山に、備えあり」(創世記22.14)。自分はもうだめだと思えるようなときでも、神は思いもよらない、見たことも聞いたこともないような救いの御手を差し伸べてくださっていたのです。

「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」とパウロは語ります。わたしは(たち)一人ではありません。クリスチャンは自分だけではないのです。あなたの職場で、家庭で、学校で同じ信仰の仲間がいないと嘆くことはあるでしょう。そう見えるときがあるかもしれません。しかし主はあなたをたった一人残しておられるわけではないのです。「現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」。今は目に見えなくとも、しかし「現に今も」主がそのように備えてくださっていることを覚え、どのような困難な状況にあっても信仰に堅く立って歩んでいきたいと思います。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

聖霊降臨節第6_2020年7月5日