聞くために語り、語るために聞く
マタイによる福音書 16:21~28  2020.8.2

礼拝において説教する者、語る者は、最初に神の言葉を聞く者です。しかし一人で聞くのではなく、この御言葉を聞こうとする者と一緒に聞きます。牧師だけの、一部の人だけの言葉ではありません。神様の言葉は聞こうとする全ての者に語られている言葉です。自分だけではなく、自分の家族や友人、その場にいない人にも語られています。聞いている者が、今度は語るもの、伝える者になるのです。
しかし私達はどこかで、神の言葉はこうあるべき、説教は、救いはこうあるべきと思っているかもしれません。イエスに従った弟子たちもそれぞれの思いがあり、イエスの救いの言葉を受け入れるどころか、最後はイエスを裏切り、みな逃げてしまいます。イエスの言葉だけでなく、神の子であるイエス・キリストを拒み、最後は十字架で殺してしまいます。私達もこれは神様の言葉ではないといって、同じように耳を塞ぎ、逃げてはいないでしょうか。その言葉を殺してはいないでしょうか。
礼拝の説教だけでなく、神様の言葉は、誰かと共に聞くために与えられています。礼拝では聖餐を守りますが、説教は見えないパンを、聖餐では見えるパンを与えられます。主イエス・キリストのからだ、私達を養うパン、神の言葉を頂くのです。大事なことは、その言葉は一人でいただくのではなく、誰かと共に頂くということ。言葉だけではなく、私達が与えられているものは、すべて誰かと共に分かち合うために与えられています。
どんな御馳走も、一人で食べたら味気なく感じることもあるでしょう。一人で頂くよりは、誰かと共にいただいたほうが、なお一層おいしいものです。同じように嬉しいことも、誰かが一緒に喜んでくれたら、その喜びは何倍にもなります。一方で、悲しいこと、苦しいことは、共に分かち合う者がいるならば、半分いや何分の一にもされます。一人では耐えられない苦しみも、それを共に担うことで、乗り越えることができます。裸で生まれてきた私達にとって、手にしているものは全て後から与えられたものです。なぜ与えられているのか。誰かのために用い、分かち合うためです。互いに担い合うためです。知識、経験、才能、時間や人生、良いものも、そうではないものも、手にしているもの全てです。
神様の言葉、イエス・キリストの言葉は、自分の救いのためだけではなく、誰かのために聞くときこそ深く味わえます。喜びは何倍にもされ、背負っている苦しみは軽くされます。イエスが、隣人が共に担ってくれる。そうして私達は救われるのです。
私達に一番必要なことは、神の言葉を神の言葉として聞くことです。聖書、説教の言葉を、いやどんな言葉も神の言葉、救いの言葉として聞くことです。それは共に聞く者がいて、またその言葉を伝える相手がいるからこそできることです。その誰かと出会わせてくれるのが、またその存在に気づかせてくれるのが教会であり、礼拝であり、日々の信仰の歩みです。この救いの言葉を携えて、求めている者に出会い、その恵みを共に分かち合いながら、感謝と、喜びと希望をもって、心穏やかに歩んで参りましょう。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

聖霊降臨節第10_2020年8月2日