マルコ14.32~42 (2018.3.25)
40日にわたるレントの歩み、今日はその最後の1週間となりました。この最後の主の日を「棕梠(しゅろ)の主日」と呼んでいます。マルコによる福音書で言えば11章に相当する箇所で、イエスと弟子たちがエルサレムに入ったとき、人々は「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言って彼ら一行を歓迎しました。そのとき「野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷きました」。その枝が棕梠の枝であったことから(ヨハネ12.13)、この日をそう呼ぶようになりました。もっとも新共同訳聖書ではもはや、棕梠ではなく「なつめやし」という言葉を用いています。英語では変わることなくパームツリーと呼んでいまして、この日を「パームサンデー」と呼ぶには変わりありません。
歓迎されたエルサレム入城にもかかわらず、その民衆から、さらには弟子たちからさえも見捨てられていくことになります。それゆえ今日から始まる1週間は受難週と言われます。今週木曜日は洗足の木曜日、金曜日はイエスが十字架に架けられる受苦日です。今日開きました聖書、ゲツセマネの祈りは1週間の中では木曜日に当たります。
ゲツセマネの出来事は、苦しみながら祈るイエスと、もう一方ではその悲しみを理解できずに眠っている弟子たちの姿が対照的に示されています。イエスは弟子たちを連れてオリーブ山にあるゲツセマネの園に行きました。祈るためにです。その様子がこう記されています。イエスは「地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われました。「『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように』」(35~6節)。「アッバ」とは当時一般社会で使われていたアラム語で父親のことです。それも親しみを込めた言い方で、「お父さん」といったような意味です。イエスは天の神をそのように呼びました。
いったいイエスがここで言う苦しみはどのような内容だったのでしょうか。ここには苦しみを表す言葉が多く出てきます。「ひどく苦しみもだえた」。「わたしは死ぬばかりに悲しい」。「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」。「この杯(苦難)をわたしから取りのけてください」。これは人々から見捨てられ、弟子たちからさえも裏切られる、そのような悲しみ、孤独から来る苦しみでしょうか。あるいはこれから十字架の死に向かう苦しみを言っておられるのでしょうか。そうかもしれません。
しかしここでのイエスの苦しみは、これまでのイエスの宣教全体を背景としたものであると言えます。イエスの宣教の開始は、神として、また神の独り子として、神の力をもってなされました。病める者を癒し、悪霊に取りつかれている者をその苦しみから解き放ち、イエスは人々に仕えながら、来たるべき神の国の到来を告げ知らせていきました。そういう意味では、宣教の前半では世を裁く方としてご自身を示されました。ところがゲツセマネにおいて、今度は反対に裁かれる者となられたのです。イエスはわたしたち罪人の代わりになることにより、わたしたちのために生きようとされました。本来人間が当然いるべき場所(裁かれるべき)にイエスは代わりに立ってくださったのです。イエスは不正な扱いをお受けになることによって、ご自身の正しさを表されました。わたしたちに代わって苦しまれることにより、勝利されたのでした。これがイエスによる救いであり、和解の務めです。使徒パウロはこう述べています。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです……罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(2コリント5.19, 21)。イエスの苦しみはここから来ているのではないでしょうか。これまでイエスが神の国の福音宣教のために戦ってきた悪、罪。今度は人に代ってその罪の支配にご自身を任せるという逆転、それゆえの悲しみ、死ぬほどの苦しみです。
イエスが苦悩しながら祈っておられたとき、弟子たちはどうしていたでしょうか。彼らは眠っていました。そこでイエスは言われます。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」。「心は燃えても、肉体は弱い」。たとえばペトロ、上の段29節でイエスにこう強弁しています。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。イエスがそれを否定されると、「ペトロは力を込めて言い張った。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません』」(31節)。ところがゲツセマネの祈りの後、イエスが逮捕されたときでした。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまいました」(50節)。当然その中にペトロも含まれます。彼はそれでも人々にまぎれてイエスの後についていきました。そこでさらに思わぬ試練に遭遇します。大祭司の中庭にいたときです。女中の一人がペトロに言いました。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」。それに対しペトロは答えました。「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からない。見当もつかない」(68節)。次に別の人が同じように言いました。ペトロはそれも打ち消します。そして三度目、他の人々が「確かに、お前はあの連中の仲間だ」と言いました。するとペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と答えました(71節)。鶏が鳴いたのはその時です。ペトロはイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだしました。良心が傷んだからでしょう。「心は燃えても、肉体は弱い」。
「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分の望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです……善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7.15以降)。今日、世界もわたしたちの国もいろいろな意味で分断されているように見えます。けれどもそうした分断はこの社会だけではありません。それはわたしたちについても言えるのではないでしょうか。わたしたち一人ひとりもまた分断されているからです。神の御心、意志にそって生きようとする自分がある一方、それを邪魔し、さらにはその方向を憎む自分もあるという分断です。決して統一された人格ではありません。「この杯をわたしから取りのけてください」とイエスは祈られました。それはイエスの一つの願いであり、わたしたち人間の意志でもあります。しかし次には「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈りました。人間の意志でなく、神の意志が行われますようにということです。「主の祈り」の第三番目でわたしたちはいつも祈っています。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」。その御心の実現を妨げている最たるものこそ、人間の願いであり、またその意志なのです。その御心に強く抵抗するわたしたち罪なる者に代わって、イエスはゲツセマネで祈り、その祈りの通り十字架の道へと赴かれたのでした。それが受難週の始まりです。