ヤコブの手紙1.16~18 (2018.10.14)

現在わたしたちは「主の祈り」について節ずつ学んでいて、今日はその第4番目、すなわちパンについての祈りに入ります。全部で6つある祈りは大きく2つに分けられることは前にもお話ししました。最初の3つは、神についての祈りでした。御名が崇められますように、御国が来ますように、御心が天と同じように地でも行われますようにとの3つです。そして今日から始まる後半は、地上的なこと、わたしたち人間についての祈りとなります。このような構成は旧約、モーセの十戒と同じです。前半は神のみを神とするといった戒めがあり、それに続き後半部分では安息日遵守や父母を敬うといった掟が続くようにです。

「我らの日用の糧を、きょうもあたえたまえ」。これが後半の最初に来る祈りです。これまで目を、そして心を高く上げ、御名、御国、御心といった神のことを祈ってきたのですが、後半の最初はこのように一挙にきわめて地上的な、またきわめて日常的な食べ物についての祈りが来ます。その後に罪について、あるいは誘惑や悪からの救いが続きますが、本来ならこれら5番目、6番目の祈りの方が優先するのではないでしょうか。罪の赦しや悪からの救いこそ、きわめて教会的、信仰的なテーマだからです。この順序はイエスの荒れ野の40日にわたる試練についても言えることです。そこで最初に問いかけられたのは、やはりパンの問題でした。石がパンになるように命じたらどうだ。その後に続く誘惑は、神を試みてはならない、また神だけを礼拝するというものでした。そうした罪の赦しや礼拝の基本的なことがあるにもかかわらず、それらの前に、まず食べ物についての祈りが来ていること、わたしたちはまずこの順序に注目してよいと思います。

何を食べようか、何を飲もうか、また何を着ようかといったことに代表される日々の生活のことに思い悩んでいるわたしたちに向かって、これらのものが皆あなたがたに必要なことを神はご存じであると言われました。イエスは病人をいやし、嵐も静められました。人間のさまざまな困窮に手を差し伸べてくださいました。5千人にパンを与えた奇跡に見られるように、飢えた者には食べ物を、渇いた者には水を与えられたのです。食べ物はわたしたち人間にとって思い煩いの最たるものですが、それゆえにまたイエスにとっても重要な関心事でもありました。

「我らの日用の糧を、きょうもあたえたまえ」。これは文語訳聖書の言葉です。ただ日用の糧というのは今日ではあまり使われないように思います(日用品といった言葉くらいか)。パソコンで「にちよう」と打つと、最初に出てくるのは日曜日の「日曜」という言葉でした。またこの糧という言葉、なかなかうまい訳であり上品だと思いますが、どこか抽象的な感じもいたします。ギリシア語では「アルトス」という言葉で、パン、英語の「ブレッド」にあたります。つまりわたしたちの生活感覚で言えば、パンかあるいはご飯です。

この「日用」と訳される原語は、マタイとルカの「主の祈り」の2回しか出てこない珍しい言葉で、それゆえこれまで研究者がいろいろ論議してきました。「日用の糧」、現在のわたしたち新共同訳聖書では「必要な糧」としています。その前の口語訳では「日ごとの食物」で、わたしはこれを今日の宣教題に採用しました。それぞれ味わい深い訳だと思いますが、口語訳聖書の「日ごと」が原意に一番近いようにわたしは思います。明日の食物ではなく、1週間後の食物でもなく、日ごとの食物を求める祈りです。別の言い方をすれば、来る日の食物ということです。朝に「主の祈り」を唱えるならば今日この一日の食べ物のことであり、夕べに祈るならば明日の食べ物ということです。今日、わたしたちの社会は冷蔵庫に3日分、あるいは1週間分の食べ物を保存できるようになっていますが、そうだからといって「主の祈り」を3日や1週間に一度行えばよいというものではありません。

イエスのたとえ話に「愚かな金持ち」があります。自分のために大きな倉を建て、そこに一生食べていけるだけの物を蓄えました。ところが彼はそれらを味わうことなく、その夜死んでしまいました(ルカ12章)。「我らの日用の糧を、きょうもあたえたまえ」。この糧はもちろん直接にはパンのことを言いますが、しかし必ずしも食べ物、パンだけを指しているのでもありません。それを味わうには命が必要です。健康も欠くことができません。孤食ではなく、一緒に食べる人との交わりがあればもっと豊かになるでしょう。糧とは衣食住といった人間が生きていくための基本的な必要物を含んでいるのです。今日の聖書でヤコブが言いました。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」。「良い贈り物」「完全な賜物」、これらはどちらも同じで、神から、上から与えられる恵みです。人間には貪欲さがあるため、いつも不足感に覆われて貧しく、思い煩うことの多い日々ですが、たとえ多くのものではなくとも、日々与えられているものを恵みとして感謝して受け、それを味わうことのできる命、健康を感謝し、またそのために祈ることが大切なのではないでしょうか。

「我らの日用の糧を、きょうもあたえたまえ」。ここには「我ら」という言葉が使われています。「わたしの」というのではなく、「わたしたちの」ということです。先程の「愚かな金持ち」は、「わたしの」「自分だけの」という世界、自分だけの持ち物という意識で生きていました。それゆえに金持ちではありましたが、愚かでもありました。イエスがなぜ「わたし」ではなく、「我ら」という言葉を用いられたのだろうか。またその「我ら」という範囲は、どのような広さを持っているのでしょうか。現在アメリカ大統領のトランプさんは、「アメリカ・ファースト」と言って、いろいろ世界を騒がせています。通常、「わたしたち」と言う場合、それは自分の一番身近な家族を思い浮かべるかもしれません。「我らの日用の糧」とは、自分の家族の必要物ということです。けれども自分の家族さえよければというものでもありません。さらに広げれば、自分の属する団体・企業とか地域も、この我らに含まれるでしょう。自分の教会、自分の国、それはもっともっと広がっていき、またどこまで広げていくかが、この祈りを唱えるときのわたしたちの課題ともなります。被災地のことを思い、世界の貧しい困難な地域を覚えて、何らかの手を差し伸べることも、この「我らの日用の糧を、きょうもあたえたまえ」との祈りが指し示しているのではないでしょうか。

神は天の窓を開いて、祝福を限りなくわたしたちに注いでくださいます(マラキ3.10)。それが良い贈り物、完全な賜物です。わたしたちは日ごとにそのような恵みを受けているのですから、それゆえに日ごとに祈りをささげていくのです。「我らの日用の糧を、きょうもあたえたまえ」。受けることにおいて豊かであるのは、同時に分かち合うことにおいても豊かとなるよう、この祈りはわたしたちをそこへと導いていくのです。