ルカによる福音書6.1~11 (2019.2.10)

 安息日は聖書独特の言葉で、しかも重要な意味を持っています。それはモーセの「十戒」に出てくることでも知られています。この安息日、旧約時代の中核を占めていただけでなく、それは新約聖書にも引き継がれていきます。特に福音書において、また使徒言行録においてもパウロはこの安息日の礼拝に出席していたことが幾たびか記されています。ただパウロの手紙からは安息日という言葉はほとんど語られなくなりました。それならその重要性がなくなったのかと言いますと、そうではありません。代わりに「主の日」という言葉が用いられるようになり、キリストの復活という意味がそこに込められて、教会は新しい安息日とを守るようになったからです。  

 この安息日の歴史を見ますと、今日までにその受取り方がいろいろ変遷してきたことが分かります。そもそも安息日を語る律法は、モーセの「十戒」の第四戒に記されています。こうあります。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト20.8-10)。ここには二つの方向が示されています。一つは「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という積極的な面、もう一つは「いかなる仕事もしてはならない」という否定的な面です。この否定的な面を巡って、旧約聖書にはさまざまな出来事が記されています。たとえば火をたいてはならない(出エジプト35.3)、火を使っての食事の準備はその前日までに終えておかねばならない(出エジプト16.23)。安息日に薪を拾い集めた者が罰せられていますし(民数記15.32)、商売をすることも禁じられていました(ネヘミヤ13.15)。こうした厳格さはイギリスのピューリタンにおいても見られ、16世紀には日曜日に笛を吹いた男性が有罪として裁かれたという話があります。それが影響しているのでしょう。日本でも明治初期のクリスチャンたちは禁欲的でした。たとえば内村鑑三は札幌農学校時代、日曜日につい勉強してしまったと日記で悔いていますし、商店を経営するクリスチャンが日曜日にあえて商売を休むということもありました。わたしが前にいた下松教会のお年寄りから聞いたことですが、自分たちがまだ若いころ(終戦直後)、礼拝の帰りに映画を見に行ってはならないというようなことを言われたと語っていました。安息日に娯楽を禁じるという雰囲気があったのでしょう。  

 このような流れで今日の聖書を読むと理解しやすいのではないでしょうか。二つの出来事が記されています。一つは麦畑の話です。それは安息日のことでした。イエスの弟子たちが麦の穂を摘み、手でもんで食べました。他人の麦畑に入って手で摘むくらいのことは問題ではありませんでした(申命記23.26)。問題とされたのは、「麦の穂を摘み、手でもんで食べた」のが安息日であったからでした。律法を厳格に規程するファイサイ派が、それを問題にしたのです。「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」。そこでイエスは故事を引き合いに出しました。ユダヤ人ならだれでも崇めるダビデについてのものです。それはサムエル記上にある出来事で、ダビデは祭司のほかには誰も食べてはならない供えのパンを食べたという話です。それは安息日とは直接関係がありませんが、このように緊急を要する場合には、許されるというものでした。そしてイエスはまとめとしてこう言われたのでした。「人の子は安息日の主である」。もっともこの言葉の前に、並行するマルコによりますと、次の言葉が語られています。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(2.27)。  

 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」。二番目の出来事は癒しにおいてでした。イエスが会堂に入って教えておられたときのことでした。そこに右手が萎えた男がいました。律法学者やファリサイ派は、安息日のこの日、イエスが癒されるかどうか注目していました。イエスは彼らの考えを見抜き、そこでこう言われたのでした。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」。確かに安息日ではあっても、命にかかわる病気の場合には治療が許されるという例外はありました。それに対しこの男にはどのような緊急性があったのでしょうか。安息日を避けて明日に治療を受けても、問題はなかったのかもしれません。けれどもイエスはそうような捉え方をしませんでした。目の前に苦しむ者がいる。そこに手を差し伸べる、それが一番重要なことだったのです。それが安息日の主としての働きであり、「安息日は、人のために定められた」。決して「人が安息日のためにあるのではない」ことから来る姿勢だったのでした。  

 そもそも安息日についての記述は聖書の初め、創世記の冒頭から語られていることでした。天地万物が「極めて良かった」とのもとに完成されました。第六の日のことです。そして「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(2.2-3)。このように神の創造の御業のもと、その被造物のひとりである人間として、わたしたちにも安息が与えられ、その日が祝福された日、聖別されたものとなっているのではないでしょうか。けれどもそこには神が仕事を離れられたようにわたしたちも仕事を休む、休息を取って疲れを取るという以上の意味が含まれています。それは全人格的な安息、癒しが与えられる日だということです。そういう意味では、「……してはいけない」という禁止命令は必要かもしれません。神の御前に出る、安息を得るには、日常の手を休めなくてならないからです。ただしそこにあまりこだわり過ぎると、悪しき律法主義に陥ってしまいます。ここでイエスを批判したファリサイ派や律法学者がそうでした。彼らはこの規程に余りにこだわるあまり、安息日が人のために定められたという本質的なことを見失ってしまったのでした。だからあのような態度を取ったのです。 しかし今やわたしたち信仰者にとって、安息日は新たにキリストの甦りの日として、週の初めに移行しました。もはや1週間の終わりの第七の日ではなく、その重要な意味を受け継ぎつつ、週の初めの日、すなわちキリストの復活に基づく主の日として安息日を迎えているのです。それが今日の主日です。それは1週間の日常の疲れを取る休息の日であるだけでなく、心も含めて全人格的な安息の日であり癒しの日でもあります。さらにはこの日は、祝いの日、喜びの日、自由の日でもあるのです。さまざまな悩みや重荷を抱えながら疲れが取れない日々の生活にあって、それにもかかわらず神は創造の御業を「極めて良かった」とされ、そのように導いてくださる。さらにはキリストの十字架と復活による罪の赦しと、そこから与えられた新しい命、そのもとでわたしたちは再び新しい1週間の歩みを始めることが許されているのです。なぜならイエス・キリストは安息日の主であるからです。