ルカによる福音書24.13~35 (2019.4.28)          

 イエスが死の墓から甦られた後の出来事としては、たとえば疑い深いトマスに現れた物語などが有名です。それと同じくらい、今日の箇所で語られているエマオ途上での出来事もよく知られています。これだけまとまった、しかも長いストーリーはとても感動的であり、イエスの復活とは何かを豊かに示しています。

 イースターの朝と同じ日、二人の弟子がエルサレムから60スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩いていました。60スタディオンとは約11㎞です。歩いて行ったのですから3時間ほど歩行となるでしょうか。二人がイースターの朝の出来事について話していたときのことでした。イエスが近づき、彼らと一緒に歩き始められました。しかし「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」とルカは記しています。イエスはやり取りしているその話は何のことですかと尋ねられました。二人は「暗い顔をして」立ち止まり、その内の一人クレオパが答えました。自分たちはイエスこそイスラエルを解放してくださると(贖ってくださる)と望みをかけていたのだが、祭司長たちによって十字架につけられてしまったこと。さらに仲間の婦人たちが墓へ行ったところ、イエスの体はなく、天使たちから「イエスは生きておられる」と告げられた一連の出来事をです。そこでイエスは言われました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。そしてモーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたりご自分について書かれていることを説明されたのでした。

 一行はエマオに到着しました。なおも先へ行かれようとする旅人、すなわちイエスを無理に引き止めて、二人は食事に誘いました。一緒に食事の席についたとき、「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しに」なりました。すると二人の目が開け、その旅人はイエスだと分かりました。そのときもはやイエスの姿は見えなくなりました。そこで二人は言うのでした。「道で話しておられたとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。そこで彼らは急いでエルサレムへ戻り、仲間たちの新しい体験や、自分たちの「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第」を話しました。

 このエマオ途上の物語はイエスの復活とは何か、またどのようにして復活のイエスに出会うかを示しています。二点にわたってお話しします。まず一点、それはエマオへの道を一緒に歩いておられたときのことでした。聖書の中で「歩く」「歩む」という言葉は、特にパウロとヨハネが愛用しています。今日のような具体的な歩行から始まり、たとえば「光の子として歩みなさい」といった信仰的な意味で大変多く語られています。「歩く」とはギリシア語で「ペリパテオー」と言い、ここからギリシアの哲学者アリストテレスの弟子たちは、「ペリパテティコイ」、すなわち歩く人と呼ばれていました。彼らはアテネの街を歩き回りながら、師から教えを受けていたと言われています。現代ではすぐにスマホを手にし下を向きながら歩きがちですが、この11㎞に及ぶイエスとの歩きながらの話し合いがいかに大切なものであったかをわたしたちは教えられます。

 その道すがらイエスが話されたのは、27節にある通り「モーセとすべての預言者」、すなわち旧約聖書からご自分について説明されたことでした。この「説明された」とは、解き明かしという意味で、他の箇所では解釈とも訳される言葉です。旧約のどこに苦難のメシアが示されているのか、それは書かれていませんが、イザヤ53章などがおそらく取り上げられたことと思います。聖書を読むこと、それが自分一人であっても、そのように聖書に親しむことは大切です。けれども自分勝手に読むことに対しては、警戒しなくてはなりません。それは律法学者やファリサイ派のように、イエスとは反対方向に進んでしまうことになりかねないからです。二人の弟子たちは、「暗い顔」をして歩いていました。それは彼らの目が遮られていたからです。復活の信仰に生き者に、暗い顔はふさわしくありません。どのような状況の中にあっても、たとえ暗い出来事に遭遇したとしてもです。そのためには自分の心の持ちようを変えるといったことではなく、復活の主に出会うこと、そのためには聖書の解き明かしが重要なのでした。

   聖書の解き明かしを第一点とするならば、二点目として食事を挙げることができます。二人の弟子たちに引き止められて食事の席に着いてからのことですが、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。ここではいつの間にか、イエスは食事に招かれた客ではなく、ホストとして食事を提供している人となっています。その両面があるのでしょうが、第一点の聖書を説き明かすイエスと同様、ここでは食事を通してご自身を現されることになりました。この食事は単なる食事だけを意味しているのではありません。ここには4つの動作が記されています。「パンを取る」「賛美の祈りを唱える」「パンを裂く」、そして「お渡しになる」という4つです。これは以前5000人に食べ物を与えられたとき(9章)、また特に「これはわたしの体である。わたしの血である」として、弟子たちと最後の晩餐を共にされたときの動作と同じです(22章)。それと同様、二人の弟子たちと共にした食事は単なる食事ではなく、それを通して神の祝福が彼らの命、さらには生活全体に満ち溢れるように、しかもイエスの十字架の死による新しい契約の実現がここには含まれていたということではないでしょうか。そういう意味では、この4つの言葉は聖餐式の術語であるといってもよいと思います。

 まさにその時でした。二人の目が開け、自分たちの前にいる旅人が復活のイエスであることが分かったのは。それまで遮られていた目、そのため暗い顔をしていた二人が、復活の主に出会うことにより、明るい顔をした喜びと希望に生きる人となったのでした。それからイエスの姿は見えなくなったと聖書は記しています。それは積極的な表現であって、もう見えなくても大丈夫ということでしょう。なぜならいつもイエスが弟子たちの心の中に生きており、言葉では言い尽くせない喜びで満ち溢れるようになったからです。 このように道すがらの聖書の解き明かし、それと共に食事に示される聖餐の恵みに与るとき、そのとき彼らの目が開かれたのでした。今日の御言葉の宣教と聖礼典と言うことも可能です。そして彼らは言うのでした。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(1ペトロ1.8-9)。このように復活の主イエスは、わたしたちの同伴者、共に歩む旅人として、いつも共にいてくださっているのです。もう暗い顔をして歩むことはありません。