宣教 「今、この目で主を仰ぎ見ます」 棚村 惠子牧師
ヨブ記 42章 1~6節、マルコによる福音書 15章 39節
旧約聖書のヨブ記は苦難の中での信仰者の生き方を深く考えさせる物語です。信仰深く、正しい人ヨブは豊かな財産と家族、健康に恵まれ、まるで絵に描いたような幸福な人生を享受していました。けれども、天上で行われた集まりでサタンが「ヨブは利益もないのに神を敬うでしょうか。」と言ってヨブの幸福を取り上げ試すことを提案します。それによってヨブは不可解な禍に突然遭い、不幸のどん底に落とされましたが、「私は神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこう」と言い、模範的な信仰者の態度を崩しませんでした。
もし、ここで物語が終わっていればお定まりの教訓物語となったでしょうが、実際は3章以下に長々とヨブの嘆き、悲しみ、怒りが吐露されています。思い余った友人たちがやってきて彼を慰めようと説教をしますが、ヨブの怒りはエスカレートします。友人たちに共通した考えは応報主義でした。それによると神は罪に対して見合った罰をお与えになる正しい方だからヨブの不幸の原因は彼の側に相当の罪があることになります。しかし、ヨブは「正しい人は恵まれ、悪しき人は滅びる」という単純な図式に納得できませんでした。
このように苦難に遭うと、とかく親しかった友人との間に深い心の溝が生まれます。孤独なヨブでしたが、本当にひとりだった訳ではありません。彼は深い穴の底から神に向かって思いの丈を叫びました。彼は自分が受けた不当な禍について神からの説明を切望し「見よ、私はここに署名する。全能者よ、私に答えて欲しい。」と強く神に迫りました。
これに対して、ついに神は嵐の中から口を開かれ、創造主にしか分からない自然界の不思議や野生の生き物たちの素晴らしい知恵の数々を語り、「お前はいったいこれらを知っているのか」と問われました。ヨブは一つも答えることができず、ついに「あなたのことを耳にしてはおりました。しかし、今、この目であなたを仰ぎ見ます。」と降参しました。
こうして、圧倒的な創造主の出現によってヨブは真の礼拝者とされました。神が彼の問いに答えてくださった訳ではなく、また苦しい状況も全く変わらないのにもかかわらず、彼は心を震わせ納得しました。彼のために顕現し呼びかけてくださった神に心を熱くし、平伏して礼拝しました。それは「利益なしに人は神を敬うわけがない」と決めつけたサタンの完全な敗北でした。人は苦難の中でも、苦難を通して新しい境地に立つことが可能です。
福音書にはヨブ以上に完全で正しい方であるのに不当な苦しみに遭って死なれ、三日目によみがえられた神の子イエス・キリストが証されています。この方を十字架につけ、すぐ近くで見ていたローマの百人隊長は、絶命の姿に心を震わせて「この人こそ神の子だった」と告白しました。ここにも神の凄まじい顕現に触れて礼拝者となった人の姿があります。
時代は飛びますが、かつてアメリカで不当にも奴隷とされた黒人の人々は、主イエスを唯一の友とし、「イエスのほかには誰も私の苦しみは分からない」と歌って苦難を乗り越えました。世の不条理に苦しんだ人々は十字架の主を仰ぎ見て、「なぜ相応しくない私のためにこんな死を」と心震わせました。その主を仰ぐとき「あなた方は世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」という声が響きます。それを聞いて心熱くされる私たちは苦難のただ中でも礼拝し、この世を生きる力と励ましをいただきます。
※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。