ルカによる福音書4.1~13 (2019.3.10)
先週6日の「灰の水曜日」から受難節(レント)が始まりました。その日から数えて40日間(日曜日を除く)をこれから歩んでいきます。これは今日の聖書に出てくるイエスの荒れ野における40日の試練に基づいています。今日はその受難節の第1主日で、これから6週間を受難節として、イエスの苦難と死を覚えつつ歩んでいきます。ところでこの朝すでに終えましたCSの礼拝では、それを消火礼拝として守りました。これはあらかじめ6本のローソクに火を灯しておき、毎週1つずつ消していくものです。6本のローソクの光がすべて消えたときが、棕梠の主日であり受難週という最後の1週間になります。それは主イエスがわたしたちのために十字架の死に渡され、墓に葬られるまでを象徴的に表したものであり、この世界が真っ暗闇に陥ったことでもあります。
荒れ野での40日にわたる試練は次のように始まりました。「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」。ヨルダン川とは、前の3章で語られているイエス受洗の場所です。そのときも聖霊が鳩のように降ったと記されていますが、この荒れ野においても同じ聖霊に満たされていました。その次に興味深い記事が続きます。「そして、荒れ野の中を霊によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた」。荒れ野の試練において、二つの大きな力のもとに置かれていたということです。一つは霊、すなわち神の支配、もう一つは悪魔の誘惑です。荒れ野の40日にわたる試練は、イエスたった一人で悪魔に対したのではなく、もっと大きなところでは神の御手のもとにあったということではないでしょうか。ちょうど旧約のヨブに襲った様々な試練、それは直接にはサタンの仕業ではありましたが、同時に神のもとにもあったようにです。わたしたちの世界には突如としておとずれる様々な苦しいこと、つらいことがあります。明日東日本大震災から8年目を迎えます。どうして自分たちだけに、なぜこのわたしに…。これは誰の問いでもあり、誰に起きても何らおかしくない試練でもあります。それでも神の導きと守りはいつも目に見えるわけではありませんが、決してその導きの糸が途切れたというわけでもありません。この荒れ野の悪魔の誘惑において、神の霊も同じく臨んでいたようにです。
その40日の間、何も食べず、イエスが空腹を覚えられました。そのようなときでした。そのようなときとは、人間がもっとも誘惑に陥りやすい一つの状態のときです。普段立派なことを言っていても、また言うことができていても、いつも自らを同じように保つことは至難の業です。それがこのときでした。悪魔は声をかけました。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。旧約の歴史を辿っていきますと、水が不足すれば「喉が渇いて死にそうだ」と不平を言い、食べ物がなくなるとこんな荒れ野で我々を死なそうとするのかとモーセに不平を言う場面に幾度も直面します。それでも神はその都度、民に飲み物、食べ物を与えられました。今ここでイエスも同じように試されています。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。イエスは神の子です。荒れ野の民に与えられたと同様、パンを与えることはおできになりました。それでも悪魔の誘いに乗りませんでした。イエスが5千人に食べ物を与えられたように、人間の必要はご存知です。けれどもここではもっと本質的なもの、すなわち朽ちる食べ物ではなく、永遠の命に至るものを指し示されたのでした。それが「人はパンだけで生きるものではない」との言葉です。地上のパンは満たされれば満足しますが、すぐに不平、不信仰に陥るうわべに過ぎないのもでもあります。それに対しこうした極限において、「人はパンだけで生きるものではない」と答えられたのは、わたしたち人間にとって本質的に何が必要なのか、何がそうでないかを教えているのではないでしょうか。
次に悪魔はイエスを高く引き上げ、世界のすべてを見せました。そしてその国々の権力と繁栄を与えようと言いました。「もしわたしを拝むなら」がその条件です。拝む、それは悪魔にひれ伏すということであり、礼拝をするということです。この世の権力と繁栄、それは何と魅力的なものでしょうか。それはお金の魅力であり、社会的な地位でもあります。この世的な人間のプライドを支えるいっさいのものといってもよいと思います。それを手に入れるためには、人は自分の良心を捨て、神さえも見捨てることがあります。それはまさに受難節のテーマでもありましょう。ペトロを初めとした弟子たちがそうでした。イエスは言われました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うのである」(ルカ9.24)。彼らは最後のギリギリのところに立つと、自分の命を、自分自身を守ろうとしてイエスを見捨てました。そのことによって結局は自分自身をも失っていったのです。ここでのイエスの答えは神だけを拝む、神のみを礼拝しなさいということでした。それは人間にとってもっとも重要な軸となるものです。もしこの神から離れてしまうなら、そのことによって隣人との関係も崩れてしまい、それだけではなくまことの自分自身からも離れてしまうのではないでしょうか。
最後に悪魔はイエスを神殿の屋根に立たせ、ここから飛び降りてみよと言いました。神は必ず守ってくださるからだというのがその理由です。確かに神は守ってくださるでしょう。わたしたちが苦難に遭うことなく、できるだけなめらかな道を歩むことができるようにです。またたとえ死の陰の谷を歩むことがあったとしても、そこからも救い出してくださるにちがいありません。けれどもそうしたことはすべて神の御心においてなされるものであり、わたしたち人間が指図すべき事柄ではありませんし、そうできるものでもありません。それは人間が神の上に立つ(立てる)という誤解にすぎません。「あなたの神である主を試してはならない」がイエスの答えでした。神がわたしたちを導く主であって、わたしたちはその神に従いながら、備えられる道を歩む者なのです。
このようにしてイエスは悪魔からの誘惑をすべて拒否しました。そしてひたすら神に従いとおしたのです。他方ではわたしたちにはそうした信仰の従順さがありません。神を差し置いて自己主張があり自己正当化があり、自分が主となっている罪の現実に覆われているからです。その結果、自分を十分に生きることができなくなっているのが現実です。イエスはわたしたちのために、わたしたちに代って、様々な試練に耐え、神に従いとおされました。そのイエス・キリストを信じる信仰によって、今わたしたちも誘惑に打ち勝つ者として歩むことが許されています。今日の最後は「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」という言葉で結ばれています。「時が来るまで」とはいつのことでしょうか。それは最後の晩餐のときです。悪魔(サタン)は再び現れ、イスカリオテのユダの中に入りました(ルカ22.3)。受難節最後の時です。これからの40日間のレントの歩み、悪魔は最初と終わりに出現するだけで、すべてに顔を出すわけではありませんが、いなくなったわけでもありません。一時離れただけのことです。現在もわたしたちの内から、外側から様々な誘惑の声が聞こえてきます。わたしたちはひたすらイエス・キリストにつながりながら、主を信じ、主に従いながら、誤った道から守られるように祈りたいと思います。