マタイによる福音書16.13~28 (2019.3.24)
マタイによる福音書では、今日の箇所がちょうど後半に差し掛かる最初のところとなります。それは分量において言えることで、全体が28章から成っているのに対し、ここ16章はその半分あたり相当しています。ただそれ以上に後半に差し掛かるという意味は、内容においてです。その内容とは、これまでイエスは神の国の福音の説教をなし、癒しや驚くべき神の御業を中心に行ってきたのですが、ここにきて自らの苦難と死を語るようになりました。そのターニングポイントとなるのが、今日の16章なのです。場所はフィリポ・カイサリアというかなり北の地方に行かれたときのことでした。福音書によりますと、イエスはここには一度しか行っておられません。それほど遠い地であり、またそれゆえに静かな場所であったのかもしれません。重要なことを決断するには、また大切なことを考えるためには、こうした落ち着いた静かな環境が人には必要なのでしょう。
そのフィリポ・カイサリア地方に行かれたときのことです。イエスは弟子たちに尋ねられました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。ご自身についての世間の評判を尋ねられたのです。そこで弟子たちはそれぞれ耳にしたことを告げました。洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、それ以外にも「預言者の一人」(モーセのような)とのうわさについてです。こうした預言者は終末のときに再び現れると信じられており、それが今イエスその人において実現しているのではないかと思ったのでした。次にイエスは弟子たち自身に向かって尋ねられました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。他人がどう言っているかではなく、あなたがたはどう思っているかということです。そこで弟子の第一人者であり、スポークスマンでもあるペトロが答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」。これはペトロの信仰告白であり、今日のわたしたちも踏襲しているものです。イエスはこの告白を受け入れ、次のように言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天に父なのだ」。イエスを信じる信仰、信仰の告白は神の啓示によるものであって、人間が選んだり、判断したりするものでないということです。そこで重要なことを言われました。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」。
教会、これをギリシア語ではエクレーシアと言い、原義は「呼び出された者たちの集い」という意味です。ならば誰が呼び出すのか。それは神です。日常の生活においてわたしたちは生活のやり繰りをしながら、計画を立て、また決断をして教会に集います。そういう意味では人間の業ではあります。しかし根本的なところではわたしたちの思いを超えて神の呼び出しがあるからこそ、教会の集いがあり、信仰が成り立っているのです。この教会という言葉は4福音書全体を見てもマタイにおいてだけ、ここと次の18.17の2回して出てきません。なかでも今日の箇所でイエスが語られた教会は、非常に重要な意味を持っています。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。イエスは「わたしの教会」と言われました。「この岩」とはペトロを指しているという以上に、彼のなした信仰告白だと思いますが、イエスはその信仰告白がなされるところに、ご自身の教会を建てられるのです。だからこそ陰府の力、死という滅びの力でさえも、教会に打ち勝つことができません。教会はイエスが「わたしの教会を建てる」と言われたとおり、キリストの招き、主が支配しておられるからです。
このときからイエスはご自分の苦難と死について、弟子たちに打ち明け始められました。それは長老、祭司長、律法学者たちから苦しみを受けて殺され、三日目に復活するということをです。するとペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。「あなたはメシア、生ける神の子」と告白したペトロ、そのメシアとはペトロにとってどのような方だったのでしょうか。それは旧約以来待望されてきたダビデのように、栄光ある王国を築き上げることのできる人だったのではないでしょうか。それは他の箇所からも分かります。弟子たちはイエスが栄光の座につかれるとき、主の右に、また左に座らせてほしいと願っていました。それは長老、祭司長、律法学者にかしずかれることであって、決して彼らから苦しみを受けることではありませんでした。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。ペトロはイエスを心配しているのでしょうか。それとも自分のためにも、そんなことがあってはなりませんという意味でしょうか。イエスはペトロに「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われました。この言葉は後にいっそうあらわになりました。イエス逮捕された後、大祭司の中庭においてのことです。ペトロがある女中からあなたもイエスの仲間だと指摘されたとき、「そんな人は知らない」(26.72)とイエスを否みました。「そんなことがあってはなりません」の「そんなこと」がそこで起き、結局ペトロは神ではなく、人間のこと、自分のことを思っていたことが明らかになりました。
それからイエスは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」。ここには二つの命が語られています。それは捨てるべき命と、もう一つは捨てることによって得られるまことの命です。あなたは「神のことを思わず、人間のことを思っている」。ペトロは自分の命を捨てきれず、反対にキリストを捨てました。そのことによってまことの命を失いました。「あなたはメシア、生ける神の子です」。この告白は、言葉としてはまことに正しいものではありましょう。しかしわたしにとってどのようなメシアなのかは、その告白の内容は日々問われるのではないでしょうか。イエスは「自分の十字架を背負って」と言われました。キリストの十字架ではありません。あなたの十字架です。わたしたちの背負うべき十字架、それは他ならぬわたしに与えられた試練、課題であり、それはまた「人間のことを思う」肉なる思いや自分への執着も含まれるでしょう。それらから逃げず、恐れず、むしろ信仰による自由な態度でそれに向き合い、引き受けることなのではないでしょうか。そのようにわたしたち一人ひとりが「自分の十字架を背負って」、イエスをメシア(キリスト)と告白して歩むとき、そこにこそ揺るぎない岩の上に建てられた教会、すなわち「キリストの教会」がこの世に立ち続けていきます。それは陰府の力をはじめとする世のいかなる力も、決して打ち勝つことができないほどの堅固な教会なのです。