列王記上22.1~17 (2019.12.8)
水曜日の聖書研究会・祈祷会と金曜聖書研究会は今週をもって終り、年末年始はお休みします。その水曜聖研についてですが、現在はサムエル記上のほぼ終わりのところに入っています。最後はサウル王の戦死で上巻は閉じられます。このあたりをイスラエルの歴史では王国成立史と言い、ダビデ、ソロモンを頂点としています。その後、王国は南北に分裂し、やがて北王国の滅亡、続いて南王国が滅んでいきます。つまり王国成立の後、イスラエルの歴史は王国分裂史に入り、次には両王国とも滅亡へと向かっていくのです。
この朝開いた聖書、列王記上最後の22章は、南北二つに王国が分かれていた時代のことです。北王国イスラエルの王はアハブ、他方南王国ユダの王はヨシャファトでした。このアハブ王を語るとき、彼に対峙した預言者エリヤを思い出さずにはいられません。またアハブの妻イゼベルも強力な個性をもった人物で、彼らのもとエリヤは多くの試練を経なくてはなりませんでした。それについてはまたいつかお話しする機会があろうかと思いますが、今日の聖書には、アハブに対峙する預言者としてもう一人出てきました。ミカヤという預言者です。
あるときユダの王ヨシャファトがイスラエルの王アハブのところへやって来ました。そこでアハブ王は長年の宿敵アラムと戦おうとしているのだが、ヨシャファトに一緒に戦ってもらえないだろうかと尋ねました。ヨシャファトは、「わたしはあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体、わたしの馬はあなたの馬と一体です」と、双方の関係が極めて友好的であることを告げました。と同時にヨシャファトは、「まず主の言葉を求めてください」とアハブに求めました。神の御心を伺うということです。そこでイスラエルの王は約400人の預言者を召集して、アラム軍との戦いに行くべきか、それとも控えるべきかを問いました。すると全員が「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と答えました。
アハブ王が、わたしと共に行って戦ってくれませんかとヨシャファト王に提案したことに対し、預言者は全員「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と王の要求に沿うよう、主の名で答えたのでした。最近、忖度という言葉が多く聞かれるような気がします。特に政治の世界においてですが、これもまた古代社会の忖度の一つではないでしょうか。400人の預言者が全員王の希望に沿うような言葉を預言として語っているのです。さすがこれにはヨシャファトもおかしいと感じたのでしょう。「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と問いました。するとアハブ王は答えます。「もう一人、主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、彼はわたしに幸運を預言することがなく、災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。イムラの子ミカヤという者です」。アハブなりの率直な意見なのかもしれません。それでもヨシャファトの「王よ、そのようなことを言ってはなりません」との忠告を受け入れて、ミカヤを呼びにやりました。
一方王や高官たち一同は城門の入り口の広場に正装して王座に着きました。そこで400人の預言者を代表して、ツィドキヤが数本の鉄の角を持って、これでアラムを打ち破ることができると、勢いのよい預言をするのでした。その王座に向かう途中、使いの者はミカヤに言い含めました。他の預言者同様、王に幸運を告げるようにということをです。しかしミカヤは次のように答えました。「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」。これがミカヤの姿勢です。言い換えれば王など権力者の意向に沿うような、忖度する言葉を語るのではなく、さらには自分自身の意見であってもそれを退ける。ただ主の御言葉のみを語るというものです。
このときのミカヤ、それは後の宗教改革者ルターをわたしは思い起こしました。ウォルムスの帝国議会に召喚されたときのルターも、やはり同様400人ほどの諸侯など身分の高い人々を前に立たされました。そこでルターは自分の考えを撤回するよう求められる、いわゆる宗教裁判にかけられたのです。かつてはジャンヌ・ダルクやフスがこのような裁判にかけられ、火刑に処せられました。ルターもそのようなギリギリのところに立たされていたのです。それでもルターは言いました。「私は自分の考えを取り消すことはできませんし、取り消すつもりもありません。良心に反したことをするのは、確実なことでも、得策なことでもないからです。神を、私を助けたまえ、アーメン」。有名な言葉です。ルターはこのとき、旧約聖書における今日のミカヤに励まされたのかもしれません。王たちの前で、しかも同じように400人の預言者たちを前にしてたった一人で立ち、彼らと別の考えを述べたことにおいてです。
預言者ミカヤは王アハブや他の預言者とは別の預言を語ったため、代表の預言者ツィドキヤによって頬を殴られました(24節)。さらには王によって獄につながれてしまいました(27節)。けれどもアラム軍との戦いに出たイスラエルは敗退し、アハブ王自身も敵の弓に当たって戦死しました(34節以降)。それは王自身の要求、また400人の偽預言に従った結果のことでした。
王アハブは預言者ミカヤを指して言いました。「彼はわたしに幸運を預言することなく、災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます」(8節)。それに対してミカヤの姿勢は、「主は生きておられる。主がわたしに言われることをわたしは告げる」というものでした(14節)。アハブにとって関心のあることは、自分であり、自分の欲求でした。その自分にとって良いこと、幸運をもたらすことがまことの預言であり、自分の気持ちに沿わない、耳障りな預言を嫌っていたのです。けれども人間は罪の中に生きています。そのような自分を全面に出すこと、そのような自分に従うことによって、人は何と多くの過ちを引き起こしてきたでしょうか。その前にまず主の御言葉(聖書)に聞き従うのが重要なのではないでしょうか。「主よ、お話しください。僕は聞いています」と語ったサムエルのようにです(サムエル記上3.10)。その中で主なる神は必ずわたしたちに応えてくださいます。ただしわたしたちが求めているものをそのまま用意してくださるわけではありません。主はわたしたちが何を欲しているかではなく、わたしたちに何が必要であるか、それに基づいてに答えてくださるのです。
今日からアドベント第2週に入ります。アドベントの歩みことにおいて、大切なことの一つは悔い改めです。その働きを担ったのがバプテスマのヨハネでした。彼は言いました。「悔い改めにふさわしい実を結べ」。そのために「主の道を整え、その道をまっすぐにせよ。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らに」するようにとも語りました(ルカ3.7以降)。わたしたちは自分の弱さや過ちを抱えながら、そうした貧しいところへ来てくださる主イエス・キリストを心から感謝と喜びと悔い改めをもってお迎えしたいと願います。
教会員の方は以下のリンクからライブ録画をご覧になれます。