ローマの信徒への手紙2.25~29 (2019.7.7)

野方町教会は、この西東京教区の中杉地区に属しています。先週は週報にも告知しましたように、中杉地区の教師会(牧師会)が開催されました。以前は牧師だけでなく役員(長老)も一緒に会を運営していましたが、その後中断し、ここ3年程前から再開しました。ただ現在では牧師だけの集まりとなっています。今回は11名(19教会中)の牧師が参加しました。2時間ほどの集まりで、それぞれの教会の現状や課題を話し合いました。その一つに昨年新しく発行された聖書協会共同訳への取り組みをどうしていくかがありました。積極的に取り入れていこうとする教会もあれば、まだほとんど考えてもいないという教会もあり対応はさまざまでした。ただ牧師個人としては、ほとんどがこの聖書を購入しているようです。そこでしばらくは、わたし自身も現在行っている通り、特に新しい訳について気づきがあればその都度、礼拝の中で紹介していこうというものです。そうした中で少しずつこの聖書が浸透していければと願っています。

さて、この朝聖書は割礼について語っています。割礼とは何か、そしてまことの割礼とは何なのかについてです。割礼とはイスラエルの歴史において非常に古いもので、彼らの父祖アブラハムまで遡ります。神はアブラハムを選び、彼と契約を結びました。そしてその契約のしるしとしてアブラハムは割礼を受けました。これによってそれまでのアブラムではなく、新たにアブラハムと命名され、彼は信仰の父となりました(創世記17章)。それ以降、ユダヤ人にとってアブラハムがいることは、自分たちを支える大きな基盤となりました。また自分たちもアブラハム同様に割礼を受けているということは、契約の民としての揺るぎないアイデンティティーともなっていったのです。

しかしそうした割礼という外面的なしるしがあれば、それでおのずと契約の民となるわけでもありません。そこには信仰が伴わなくてはならないからです。そのところを厳しく追及したのがバプテスマのヨハネでした。彼は自分のもとに来た多くのユダヤ人を前にしてこう言いました。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。彼らに欠けていたのは、内面の生きた信仰的態度でした。そこでヨハネは言うのです。「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3.8以降)。今日の箇所の冒頭25節でパウロが言うのも同じではないでしょうか。「あなたが受けた割礼も、律法を守っていればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」。いやヨハネ以上に手厳しい言葉かもしれません。割礼など外面的なしるしには、内面が伴えば豊かな恵みであることに違いありませんが、その内面の生きた信仰が伴わなくては意味をなさなくなってしまうというものです。

それは今日の社会でも同じです。人は外面的なところに多くの注意を払い、そこで自らを、また人を評価する傾向にあるからです。その人の容姿が良いかどうか。どのような立派な家に住んでいるか。経歴は申し分ないかどうか。そして収入はどれだけ多いか等々。セレブであることがそのまますばらしいことであり、そこでは内面、あるいは実態がどうかを問うことはほとんどないのではないでしょうか。こうした現代の風潮をも批判しているような物語が聖書にあります。ダビデが王に選ばれるときの話です。彼が選ばれる直前に長男(エリアブ)が預言者サムエルの前に立ちました。するとサムエルは彼こそ王にふさわしいと思いました。ハンサムであり、背も高かったのが理由ともなったようです。ところが主なる神は別の見方をしておられました。こう言われたのです。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル上16.7)。

パウロは中身の伴わない割礼、別の言い方をすれば外見上の宗教的なしるしを批判しただけではありませんでした。それだけにとどまらず、今日における割礼とは何かにまで話を進めていったのです。彼はこういうのでした。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく、霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです」。ここにおいて外見上のユダヤ人であるかどうかではなく、内面がユダヤ人であるかどうか、また外見上の割礼ではなく、内面、すなわち霊によって心に割礼を受けているかどうかといった大胆な指摘をするのでした。いったいこれはどういう意味なのでしょうか。

パウロは他の箇所で、肉の割礼を誇りとしていたユダヤ人を指して言いました。「彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」(フィリピ3.3)。「わたしたちこそ真の割礼を受けた者です」。それは神の霊によって礼拝をする者たちのことなのです。さらにこう語っています。「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、バプテスマによって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです」(コロサイ2.11以降)。ここで「キリストの割礼」という言葉が使われています。そうです。これまでの割礼は、洗礼という新たな恵みのしるしに取って代わり、肉につながれた古い罪の自分から新しい命へと復活させられたのです。それが「文字ではなく霊によって心に施された割礼」なのであり、これこそが教会における真の割礼となったのでした。

わたしたちはキリストにあって、それまでの旧約における契約の民イスラエルを継承しつつ、しかもそれ以上の恵みを与えられた者となりました。アブラハムに与えられた恵みの割礼を受け継ぎつつ、そこに新たな意味を増し加えられたのです。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5.6)。信仰は二つの面から成り立っています。目に見えるもの、それは洗礼であり、聖餐であり、また礼拝であり、信仰生活でもありましょう。それはもう一方では内面によって絶えず潤されなければ形骸化してしまう危険性をもっています。それゆえわたしたちは今も生きて働く聖霊に導かれながら、心柔らかくされ、御言葉を通して励まされ、希望をもって歩んでいきたいと願います。