ローマの信徒への手紙4.1~12 (2019.9.1)
9月に入り、教会の聖句を新たにしました。週報と教会前の掲示板にあるとおりです。わたしは月々の聖句を決めるにあたり、まず一つは教会暦を念頭に置きます。また四季折々のことも考えます。そしてもう一つは、現代の社会が直面している様々な問題についても思い巡らします。今回は詩編30から選びました。「泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」。これだけでは趣旨が十分伝わっていないかもしれませんが、全体(13節)からの内容としては、主の慈しみに生きる人は、たとえつらいことがあったとしても必ず立ち上がることができるという信頼の歌です。この聖句を取り上げた理由としては、毎年のことですがこの9月の新学期になると、学校でのいじめ、行きたくないことから起きる引きこもり、あるいは自殺が問題となっているからです。そのような若い、小さな胸を痛めている子どもたちへも贈りたいと思ったからです。
いじめにはいろいろな理由があると思いますが、その一つには勉強やスポーツ、また人付き合いにおいて、うまくできる、できないということがあるのではないでしょうか。できる人はそのまま進んでいけばよいのですが、うまくできない人の場合、人間性そのものまで否定されてしまう(自分もそう思ってしまう)ことに問題があります。そんな中この朝のローマ書でも、わたしたちにできる、できないにかかわらず、それを超えてもっと本質的なところで、認められている、受け入れられる世界を教えてくれます。それが5節の「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」との言葉です。義とは聖書では非常に重要な言葉で、神に受け入れられる、救われるという意味と受け取ってもよいと思います。それは人間の行い、いわゆるできる、できないに左右されるものではなく、ただ神の恵みによって、その神を信頼することによって与えられるものです。学校時代のできる、できないもそうですが、長い人生にはできる時代とそれまでできたことができなくなる年齢にも直面します。けれども信仰は、そしてそこから与えられる真の命と希望は、そうした人間の能力に左右されるものではなく、神の憐れみによるものなのです。
この朝の聖書は、前の章、特に29節以降を受け継いで展開されています。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです」。このユダヤ人の神と異邦人の神は別々の神ではない。割礼あるユダヤ人もそうでない異邦人も等しく信仰のゆえに義としてくださるのは、だだ一人の神による。それを語るために、今日の箇所でパウロはアブラハムを取り上げました。
アブラハムは創世記に出てくる人物で、信仰の父、ユダヤ人にとっては「我々の父はアブラハム」と崇められてきた人物です(ルカ3.8)。中でも神からの召命を受け、行先を知らないまま故郷を旅立つ出来事はよく知られています(創世記12章)。また年老いて与えられた独り子イサクを、再び神にささげるという苦悩の物語も有名です(同22章)。このようなところから、信仰の偉人伝の中にアブラハムは必ず出てきます。それは同じように今日の箇所で語られるダビデも同様です。ただそこで忘れてならないことは、彼らの行いがすぐれていたからとか、有能であったからというのではなく、神がそうした人々を用いられたという限りにおいて、偉大であったということではないでしょうか。それはその後のキリスト教の歴史に名を残している人々についても同じです。神の選び、憐みがその人をして大きな働きへと召されたということであって、主語はあくまで神なのです。
「もし、彼(アブラハム)が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません」とあります。ならば何によって彼は義とされたのか。それは信仰によってです。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあるとおりです。ここでパウロは信仰と、もう一方では行い、その代表としての割礼を引き合いに出しました。割礼はアブラハムまで遡るものです。一方でアブラハムに与えられた信仰による義、もう一方でその印としての割礼、それを創世記に出てくる順序に着目して語ります。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」。この出来事は創世記の15章に出てきます。つまりこの時点で、彼はまだ割礼を受けていませんでした。無割礼であったのです。その後、17章においてアブラハムは信仰によって義とされたあかしとして割礼を受けました。「どのようにしてそう(信仰による義)認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです」(10節)は、この15章と17章の順序について述べたもので重要な意味を持っています。すなわちアブラハムが信仰によって義とされたのは、まだ割礼を受ける前のことだったのです。従ってドイツの学者シュラッターが次のように語るのは注目に値します。「アブラハム自身は割礼なしに、信仰によってのみ義とされた最初の異邦人であった」。
ユダヤ人に「我々の父はアブラハムだ」と言わしめるほどの強烈なアイデンティティー、アブラハムの子孫として自分たちも継承している割礼はそれを自覚させる最たるものでした。しかしアブラハムはユダヤ人だけの父ではありませんでした。割礼を受ける前に信仰によって義とされたことから、異邦人の父でもあったからです。それが今日の最後のとことでまとめられています。「こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人の父ともなったのです」。これは決して割礼を受けているユダヤ人を排除したものではなく、信仰によっていっそう豊かになることを示したものです。このようにパウロは割礼あるユダヤ人も、また異邦人にも等しく神の恵みがゆきわたることを語りました。まさにガラテヤ書でパウロが次ぎのように述べるとおりです。キリストにあるならば「もはやユダヤ人もギリシア人もなく……あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」(3.29)。そこには人間の誇りが入り込む余地はありません。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みによる無償で義とされる」(ローマ3.24)。これこそがわたしたち人間の出発点であり、できるとき、そしてできなくなった時を超えてすべてを覆うものなのです。