今や現された計画 ローマの信徒への手紙16.17-27 2021.2.14
わたしは野方町教会における最後の2年は、ローマ書の連続講解説教を行おうとかねてから考えていました。そこで2019年度から読み始め、それが今日をもって終わります。丸2年かけて読んだわけです。ただ2年目となった今年度は思いもよらなかった新型コロナウイルス感染の影響により、対面による礼拝という形が困難になってしまいました。今日もそうですが、ネットを通して礼拝に参加しておられることは分かっていますが、これまでのように同じ場所で、しかも皆さんのお顔を見ながらの礼拝とはやはりどこか違います。それでもこのような制限つきの礼拝ではあっても、それはどこまでも礼拝であり、対面であろうがなかろうが、神に召し出された終末の民の集いとの思いを抱きつつ、わたしなりに取り組んできました。ローマ書は聖書の中でもとりわけ重要な書物ですが、同時に難しい書物でもあります。参考書の一つとして用いた書物にカール・バルトのローマ書があります。彼がそこでこんなことを言っています。「年がら年中、理解し解明せねばならないと知りつつ、またそうしようと欲しつつ、しかしそれをなしえないままで説教壇に登らねばならないということがどんなことか、わたしはそれを知っている」。説教者に負わされた苦悩の言葉です。わたしもそんな未熟さを絶えず覚えながら、やっとここまで来ることができたことを感謝しています。
ここローマ書を閉じるにあたり、使徒パウロは最後の勧めを述べています。「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです」。「キリストに仕える」の反対は「自分の腹に仕える」です。「自分の腹」とは奇妙な表現ですが、それは自分の肉なる思い、自分の欲に仕える、自分中心の思いです。もっともらしい信仰の言葉や行いの中にも、そうしたキリストとは反対の方向が宿っていることを指摘したものです。この相反する二つの関係を別の聖書の箇所では次のように述べています。「あなたがたは、キリスト共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのに、なぜ、まだ世に属しているかのように生き」ているのですか。「これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵あることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです」。そこでこう続けます。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい……上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(コロサイ2.20-3.3)。このようにわたしたちはもはや、自分の腹でなくキリストに仕える者として招かれているのです。
だから「善にさとく、悪には疎く」と勧められます(19節)。善に疎く、悪にさとくではありません。わたしたちの社会やわたしたち一人ひとりの人生において、何が善であり、何がそうでないかを見分けるのが難しい場合があります。現在のコロナ禍における判断なども、その一つとして思い浮かびます。あるいは特に高齢者を狙った詐欺とか、フェイクニュースに振り回される人間の姿を見るときも、いっそうその思いを強くします。分かりやすいことばかりを求めたりすること、その単純な、そして余りに粗雑な物言いには、物事の本当の姿が見えなくなるような危険が伴います。そのように単純化してしまうのではなく、今すぐ分からなくても、分からないままつき合う思考・精神の忍耐力を養うことは必要です。「兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」とパウロは他の箇所で語っています(1コリント14:20)。またイエスご自身もこれと似たことを語っておられます。「蛇のように賢く、鳩のように素直になりまさい」がそれです(マタイ10.16)
今日の箇所に一箇所、珍しい所が出てきます。通常パウロは口述筆記という形で手紙を出していまして、その筆記者の名前は出てきません。ただこのローマ書には唯一筆記者の名前が出てきます。パウロの許可が出たのか、それとも自分でこっそり書き記したのか、その名前はテルティオという人物です(22節)。「この手紙を筆記したわたしテルティオ」。 この場合の「わたし」だけはパウロでなく、テルティオ自身ということになります。このような一文を目にしますと、何となく当時の状況をいろいろ想像しておもしろくなります。
さてローマ書16章の最後は賛美と祈りで閉じられています。それは「福音、すなわちイエス・キリストについての宣教」における賛美です。この福音は世々にわたって隠されていましたが、今やイエス・キリストによって啓示され、その救いの計画が今や現されました。これはローマ書の一貫した主張であり、1章にある次の言葉、すなわち「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」との主題聖句と共通したものです(1.17)。神の救いはキリストにおいて既に実現しました。確かにわたしたちの現実の歩みはまだ途上にあり、いろいろ悩みや迷いの中にありますが、それでも目を上に向けるとき、そこには勝利したキリストがおられ、その信仰によってわたしたちはいかなることにおいても強くされていくのです。そしてこの頌栄の最後はアーメンで終わります。アーメンとは単なる終わりの決まった言葉ということではなく、それは真実であり、確かですという意味のヘブライ語です。それを「ハイデルベルク信仰問答」ではこのように記しています。この言葉を語るとき、「わたしたちの祈りは、自分の中に、自分はこのようなことを神に求めている、と感じるよりも、はるかに確かに、神によって聞かれている」との確信の言葉なのです。わたしたちの一日一日の道のりは、どのように進むのか分かりませんが、このキリストを見上げながら、主イエス信じながら歩んでいきましょう。
※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。