創世記1.24~31 (2019.10.27)
週報に書かれていますように、聖霊降臨節が終わって今日から降誕前節に入ります。教会暦では一年を三つに分けています。一つはキリストの誕生を中心とした期間です。次に復活に関する区分が続きます。そしてその後には聖霊の働きを覚える聖霊降臨節の期間が来ます。今日から始まる降誕前節、それに続くのが待降節(アドベント)、そして降誕節へと続き一連の期間が一つのまとまりとなります。今日はその始まりとなります。これからキリストの降誕を前にして旧約聖書を開きながら、クリスマスに向って歩んでいきます。これまでわたしたちはローマ書を読み進めてきましたが、それゆえしばらくこの手紙から離れて、教会暦に沿って歩んでいきたいと思っています。
この朝の聖書は創世記の1章です。創世記の1章ということは、創世記の一番初めというだけにとどまらず、聖書の一番初めということでもあります。どの書物にも共通することですが、一番最初の書き出しというのはある意味一番難しいものであり、また非常に重要でもあります。この度、アーモンドの会報ができましたが、そこに寄稿された方も同じような経験をされたのではないでしょうか。最初にどのような言葉をもってくるか、といった書き出しについての難しさです。聖書の書き出しはこうです。「初めに、神は天地を創造された」。あまりにも有名です。そしてここから始まる天地創造のメッセージは、2章4節前半まで続きます。ここでは天地万物の創造が7日に分けられ、そこからある意味では神について、人間について、自然について、そして相互の関係等、わたしたちが知らなければならないすべてが記されています。創世記の最初であるここ1章は、最も考え抜かれて書かれていると多くの人が語るとおりです。
その中からこの朝は、第六番目の日の出来事を取り上げました。この第六日というのは、第七日に神がすべての仕事を離れて安息なさったのですから、創造の御業の最後の日ということになります。そしてその創造の最後の日に、神は人間を創造されたのでした。この創造の順序にもいろいろ考えさせられるところがありますが、今日はまず人間の創造について的を絞って思い巡らしてみたいと思います。
人間とは何か。つまり自分とは誰か。これまでいろんな人が、いろんな説明をしてきました。その中にはなるほどと思わせる定義もあります。「人間とは考える葦である」はよく知られています。ならば聖書はどのように言っているのでしょうか。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」。これが聖書の示す人間とは何かです。人間とは神のかたちである。なるほどと思いますが、しかしその「神のかたち」とはどういう意味なのでしょうか。実はこれがけっこうやっかいで、分かったようでもあり、なかなか分からないさまざまな意味が含まれているのです。
古代旧約の時代、ユダヤの周辺の国々において、その国の王は神のかたち、神の似姿としてその座についていました。エジプト、メソポタミア、またローマ皇帝も例外ではありません。ここ創世記1章が書かれたのは、紀元前6世紀に祭司たちによってまとめられたと言われています。それはどのような時代であったかといいますと、ユダヤの民はバビロン捕囚を経験した時代でした。国が亡び、自分たちの精神的支柱であった神殿も破壊され、遠く異国の地バビロンへ連れ去られた人々だったのです。そこでの生活はまことに惨めなものであり、支配者からは虫けらのように扱われていました。自分たちの良い意味でのプライド、尊厳はズタズタに切り裂かれていたのです。そうした中で聖書は宣言するのでした。「神は御自分にかたどって人を創造された」。しかもその神とはメソポタミアやエジプトの神々ではなく、聖書にあらわされた唯一まことの神、その神のかたちとしての人間だと言うのでした。
この宣言、このメッセージは人類最初の人権宣言であるといってよいと思います。どのよう人間であっても分け隔てなく、どのような困難な環境に置かれていても、たとえ王のような権力者でなくとも、人はだれもが「神のかたち」として存在しているというからです。現在のイギリスには、内閣に孤独担当大臣という新しい職務が設けられたということを耳にしました。6500万人の人口の内、900万人以上が日常孤独感にさいなまれているとのことです。この大臣どのような仕事をするのでしょうか。日本の民生委員のような全国版というわけではないと思いますが。こうした状況は日本でも似ていると思います。子どもたちが学校でいじめにあったり、うまくその環境に適応できずに引きこもってしまう。そうして社会から、人との交わりからどんどん離れていってしまいます。それは子どもだけに限りません。社会人であっても、職場にうまくなじめず、自宅に引きこもってしまうことも多くあるからです。そして高齢化した今日、老人の孤独も深刻ではないでしょうか。けれども人は一人であっても決して孤独ではありません。誰もが分け隔てなく、神のかたちとして造られた者であり、そのように存在しているからです。人は誰もが尊い存在として生きているのです。自分一人で生きているとか、自分一人の力で生きようとするのではなく、神と向き合い、神を信じて生きるこにおいて、人は尊厳のある存在なのです。
この第六日目の創造の最後にこうあります。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」。それまで、つまり第一日の創造から第五日までは、「良かった」と記されているのですが、この最後の六日目、すなわち人間の創造においては「極めて良かった」と語っているのです。英語でいう「ベリー グッド」です。なぜ「極めて」という言葉が付け加えられたのでしょうか。ここ第六日に至って、それは人間の創造を頂点として、神の万物の創造は「まったき完成となった」ということだからです。
「神のかたち」としての人間は、新約聖書にも重要な意味を伴って受け継がれていきます。まず何よりも、人となられた主イエス・キリストご自身が神のかたちでありました。「御子は、見えない神の姿」とあるとおりです(コロサイ1.15)。そしてそのキリストにつながるわたしたちもまた「神のかたち」であります。わたしたちは皆、「主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」がそれを示しています(2コリント3.18)。わたしたち人間は、どのような境遇にあっても、たとえ満腹していても空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、また健やかなときも病めることがあっても、それによって人間の価値が高まったり低くなったりすることはなく、どこまでもキリストの恵みによって「神のかたち」としての尊厳をもっている、与えられているのです。そしてそれは全生涯にわたって決して失われることはありません。