コロサイの信徒への手紙1.24~29 (2018.9.23)
「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、確かにその通りの気候になってきたようです。毎年言っているのかもしれませんが、それでも今年の夏はことのほか暑かったように思います。また台風や地震などの天災も多く、現在でも被災地では復旧作業の中にある人々が多くおられます。防災には十分気をつけているはずなのですが、自然の猛威を前にして人間の力ではどうしようもないものを見せつけられました。
今年も野方町教会では召天者記念礼拝を迎えました。座布団のカバーを洗濯し、天にある先輩諸兄姉の写真を掲げ、そして召天者名簿も作成しました。今年は教会創立81年目で、この名簿には156名の方々が載せられています。昨年の召天者記念礼拝からこの1年の間に亡くなられた方は、酒井敏夫さんでした。今年の4月で、89年の生涯でした。それ以外にも自らの家族や親族、また身近な方々を亡くされた方がおられます。こうして新たな名簿を手にし、また掲げられた写真に囲まれて礼拝を守るとき、改めてヘブライ人への手紙の次の聖句を思い起こします。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(12.1-2)。
患難、苦難というのは誰にとってもつらく、それゆえ避けたいものですが、しかし信仰者にとってはそこに新しい意味がもたらされるものでもあります。今日の冒頭でパウロがこう述べています。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし」ている。「苦しむことを喜びとする」。もう少し正確に言うならば、苦しみの中にあって喜ぶということです。苦しみと喜び、なぜ日常の世界では相反していると思われるものが結び合わされるのか。それはキリストの信仰と深く関係しています。別の箇所にこうあります。「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです」(2コリント1.5)。
教会のことを「キリストの体」と言います。今日の聖書にも出てきました。イエス・キリストの尊い十字架の血によって贖われた群れだからです。何の罪もない神の御子イエスが、わたしたちの罪と過ちを担ってくださり、それらを苦難の十字架によって滅ぼしてくださいました。そしてその死から復活することによって、もはや信じる者が闇の中を歩むことなく、反対に光の子として、新しい命に生きるようになりました。そのようにキリストの救いは完成したのですが、同時にわたしたち信仰者は今も様々な限界を抱えて地上に生きる者でもあります。そこには今も過ちがあり、罪を犯す現実に直面する日々でもあります。老いがもたらす諸問題があり、病気があります。人間関係の悩みもあります。それが今の生活であり、一方ではキリストの体に属する者として祝福の中を歩むことがゆるされているのですが、他方ではこのような肉の弱さゆえにもがき苦しんでもいるのです。
パウロが「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」との言葉は、そうした二つの時、二つの世界の間に生きる信仰者のジレンマを述べたものです。「キリストの苦しみの欠けたとところを身をもって満たしている」。この言葉をどう解釈すべきか、今日までいろいろ論議されてきました。「キリストの苦しみの欠けたところ」とは何を意味するのか。それを使徒が自らの身をもって満たすということはどういうことか。そのようなことがたとえ使徒であっても可能なのかという問題です。なぜならキリストの十字架の苦しみは完全なものであって、欠けたところはないはずだからです。この言葉を理解するためには、今申しました二つの時を理解する必要があります。確かにキリストの十字架によって与えられた救いは完成しています。その苦しみに何ら欠けたところはありません。けれども地上を旅する教会には、依然として様々な限界があり、脆さがあります。それが現在の教会であり、そこに連なるわたしたち一人ひとりの信仰と生活です。その現実の教会の欠けや弱さをパウロは身をもって満たしているということなのです。
そこで次のように続けます。「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり」ました(25節)。ここに「務め」という言葉が出てきます。ギリシア語ではオイコノミアと言います。この言葉は、二つの言葉から成り立っています。「家」(オイコス)と「管理すること」(ノモス)です。家と言いましてもそれは核家族的な個々の家でなく、もっと大きな金持ちが経営する大家族のことで、それを管理するという意味だと言われています。ここからエコノミーという言葉が生まれます。パウロはキリストの教会という大切な家を管理する職務に仕えているのです。
その教会を通して、神は大いなる栄光に満ちた計画を明らかにしてくださいました。それは以前には隠されていましたが、今や信仰者たちにあらわされたのです。その秘められた計画こそ、「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望」なのです。「あなたがたの内におられるキリスト」。そうです、あなたがたから遠く離れたところでもなく、自分にはまったく無関係というものでもなく、まさに「あなたがたの内」にキリストはいてくださるのです。それは目には見えませんが聖霊によって、また御言葉を通して、あるいは交わりを通してというように、いろいろな手段方法を用いてわたしたちにそれを示し、確信へと導いてくださっているのではないでしょうか。
この地上を旅する教会、その中を歩むわたしたち一人ひとり、そこには欠けたるものがいっぱいあります。貧しさがあり、弱さがあります。それでもいつまでも同じところにとどまっているのではなく、「キリストに結ばれて完全な者となるように」召された、そのような欠けた者でもあります。「完全な者」、それは「成熟した者」ということでもあります。「このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」とパウロは結びました。けれどもそれは使徒パウロだけではなく、現在のわたしたちが求められている姿勢であり、わたしたちに与えられた恵みでもあります。キリストの体なる教会、わたしたち野方町教会では現在81年の旅路を歩んでいます。そこには今も欠けが多くあり、以前同様変わりありません。それでもそれぞれの時代の信仰者たちがその欠けを自らの身をもって補おうとしてきたように、現在も、そしてこれからもわたしたちは自らの内に力強く働くキリストの力によって、互いにその欠けを補うように導かれているのではないでしょうか。「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望」、それがわたしたちのすべてを可能にいたします。